昭和42年8月22日 夜の御理解
この方の道は、祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる道と。祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる道だと、どうでも話を聞かせて貰い、しかも話が分かるところから、考えておることも行っておることも変わってこなければならない。
そういう変わった心、変わった生き方、そこから実らせて貰うそういう、いわば改まって祈る。
今迄の心掛けではおかげは受けられんとするならば、話を聞いてこういう心掛けではいけない、こういう思い方ではおかげにならないと云うことを、いわば教えて頂く訳なんです。
先日あのお参りになっておられます幸若さんが息子さんのお届けがあった。お母さんの話を聞いておると、成程困ったと云うようなことなんだけども、けれどもこの頃から若先生が何日かここに泊まっておりましたから、一緒に接してから、あの子は性格のいい子だ、あの子は本当に誰よりも素晴らしい素直心というか、いい性格の子だと褒めちぎって私に話すんです。するとお母さんの言うことと若先生の言うことは全然違う。結局よいところお母さん見きっていない。それは親心。ほんとにこの人はこんなことではと思う。そういう見方ばかりでみて、例えば神様にいくらおすがりしったって、おかげにゃあならん。
神様にいわば自分の子供ならいざ知らず、神様から頂いておる神様の氏子としての見方、そこに誰でも素晴らしいところがあるのである。素晴らしいところが感じられたら、私共こうやって養育のおかげを頂いておる子供達のお礼を申し上げるところが沢山有る。あれもお礼申し上げなければ、これもお礼申し上げなければならん。こういうよい性格を頂いておるところもお礼申し上げなければならん。中にこの事だけは親から見てもどうでもいけないと思うところを願う。いわゆるお礼申し上げるところはお礼申し上げて、願わなければならない。それを教えて頂かなければ分からないでしょう。
只々どうぞどうぞお願いしますというだけではいけない、というて先日そのことをお話したことでございますけれどね。
子供のことを願うことを、願うことに致しましても只ここんとこだけを、病気だけでもそうですね。どうぞこの病気を治して下さい。病気を治して下さいだけではなくて、先ず心掛けを変えて行かなくては、話を聞いて心掛けが変わってくるところに、話を聞けば聞く程例えば、胃が悪いならば胃以外のところはおかげを受けておる。
甘木の先生のお話の中にあります、何か非常にまあ、そこは忘れましたけれど、胃が悪い病人がお願いに来ました。兎に角私はこの為に不幸せであるということ、どうでも胃を治して下さいと願いにきた。甘木の先生はそのことを仰ったそうですね。世の中にはね、四百四病と言うて四百四つもいわば病気があると言われておる。現在ではもっともっとそれこそ、数えきれぬ病気が沢山あるだろう。昔の言うことでも四百四病と言うくらいである。その四百四病ある病気がその中の胃病と言う一つの胃病、胃だけが悪いのに他の四百三つのおかげを受けておることを忘れておっては、おかげになりません。四百三つのことをお礼申し上げて、そして胃が悪いことをお願いなされば、神様へそれが通ずる。お礼申し上げるところはお礼申し上げて、そういうことがお話を聞かなければ分からん。話を聞いてほんにそんな、そう言われてみれば四百三つはおかげを頂いておる、これはお礼が足らんということが分かってお礼の生活にはいられた。
毎日毎日がお礼である。目が見えておることも、手足が動いておることも、口がきけることもおかげとしてお礼申し上げるようになったら、おかげを受けたと云う話を聞を聞いたことがございます。
それは話を聞かなければ分からん。そういう改まった心でどうぞ祈らなければならない。分からせて頂いたならば分からせて頂いたら、分からせて頂いた態度をもって御用にいそしませて貰う。いわゆる信心生活させて頂いてから願うところは願うということになって来なければ筋が通らないのじゃないかと云う訳でございます。
成程話を聞いて助かると云うこともある。だから話を聞かなければ分からん。そこでです、なら話を伝えると云うことなんです。ですから話を聞いて伝えると云うことも、例えばなら同じことをごとごと親が同じことを、言うことを聞かん、勉強せん、悪いことばっかりすると云うことを同じ調子でさあ、勉強しなさい、さあ、・・・?といつも同じことを言うもんだから、うちのお母さんはやかましい、うちの親父はやかましいと云うことになって、一つもそれが新しいものとして子供に受け入れられない。そこに私は工夫が必要だとこう思うんですよ。
私共がこうやって皆さんにお話を聞いて頂くと云うことでも、確かに百八十二カ条の御教え、そういう今では百八十三カ条という教典がございますから、教典に基づいて教典をそのままに、毎日一カ条づつ読んだだけでもいいようなものだけれども、それでは皆さんがそれのことを暗記したからと云うておかげを頂く訳ではない。その御教えを本当にああそうだなあと心の底から分からせて貰う為にです、取次がして貰う、それを溶かして頂くものの工夫が要るのであり、信心が必要せあるということになってくるのであります。これも家庭内に於いても同じ。
親と子の問題でもそうです。勉強しなさい、信心しなさい、信心しなさいばっかりではいかん。さあ改まりなさい、さあ改まりなさいばっかりでは、だから頂いておってもそれを新しいこととしてそれを素直に受けると云うことが出来ないと云うのが私共普通の人間はそうであります。 そこでこの御教えを如何にして分からせようか、例えば昨日の朝から「神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞや」と云う御教えを昨日の朝から続きの様にして頂いております。ひとつの御教えを深めていく訳です。しかも皆が合点が行くような初めて聞くと云った様な話の中から、そのことをこう織り込んでの御理解ですから、私自身説いておる私が
なるほどと分かって行く訳です。如何にその、そういうことが工夫されなければならないかと云うことが分かります。
先日久留米の佐田さんところの神様の奉祭を申し上げましたからお祭りを致しました。又「 」祭でございましたがお祭りが済んでご直会になりました。御直会になりましたら、皆様御承知のように恵介君と云うて四つになる非常に賢い子がおります。非常に賢い、悪そうさんでありますけれど非常に賢い。天津祝詞なんかでも覚えて神様の前で祝詞を上げてござると云う子供でございます。したら皆今から御神酒を頂こうとしておるところへやってきて、ビールが出ておりました。僕もビールが飲みたいとやってきておりました。けれど、お客さんに出ているものを摘んで歩くのですね。横におるお祖父ちゃんが言われるんですよ。「恵介、恵介エチケットはどうした、エチケットはと云う訳なんです。そしたら今まで摘んで歩き、悪いこつしよったがピシャと止めるんですね。エチケットと新しい言葉で教えられておる訳なんですね。行儀をよくしなきゃあ、行儀をよくしなきゃあ、やっぱりエチケットという新しい言葉を覚えた。四つの子供が、だから言葉そのものを覚えたことに対してひとことの感銘が深いといいましょうか、魅力がある訳です。自分はエチケット何事にもエチケットに反してはならない、と云うことをお祖父ちゃんが教育しておられるのです。だから、恵介、恵介、エチケットはと云う訳なんです。ですからそういうようにひとつの子供の教育でもです、やはり工夫しなければいけない。只何時も同じ言葉でさあ勉強せよ、勉強せよ。さあ悪いことをしちゃあいかん。怒ることも同じこと。言うことを聞かん、言うことを聞かんと云うて怒っただけでは又やかましか、またやかましかと言うてまるっきり全然子供がそれを受け付けないものも親の工夫が足らんからだと思います。だからそういう工夫もですね、私どももそれをやっぱり思います。
そこでなら神様からこうして色々とヒントを頂きましたり、お知らせを頂いたことを皆さんに聞いて頂く訳でございますけれどもです、ここに一番大事なことは例えば同じ御教えを毎日説かせて頂いても、その先生の中に信心が、何時も生き生きさらである。そしてその新な心を持って同じことを説かれる。新しいものとして聞くものをして有難く頂くと言われておりますので、事実そうなのでございます。
ですから、如何に生き生きとしたさらな心で信心させて貰うということが大事だ。有難い信心のけいこをさしてもらい、そして心の中に有難い、勿体ないと云う生き生きとした心を持って子供を教育する、ね、自分がいらいらしたりもやもやした心で子供に私は如何に本当のことを教えたところで、それを聞く筈が無い。自分自身が有難いという心、自分自身が勿体ないと云う心をもって、そういう心から生まれて來る言葉、そこに話をして聞かせる、その話が新しいこととして、又は成程と合点させられる力をもっておる訳なんです。言葉の力が、いわゆる。ですから結局は、やはり生き生きとした信心が大事だと云うこと。そしてやはり工夫しなければいけません。
話を聞いた、話をやはりそれを只その侭でなくて、自分の信心で吟味して自分のものとしてから伝える。この道は祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる。ですから話を聞いて私共のあり方が、心の状態が変わって來る。そういう心で祈念をする。祈らせて貰う。一心に仕える、それでおかげになるのです。そこで、ほんなら新しい工夫を、それに何時も加えさせて貰う為に何時も生き生きとした新しい信心が自分自身の内容として出来ておらなければならないと云うことが分かりますですね。 どうぞ。